つれが前立腺ガンになりまして・・・
2017.04.03 Monday 11:50
2017年4月3日
夫が前立腺ガンの宣告を受けたのは2011年、定年退職した翌年65歳の秋でした。現職中、病とは全く無縁の人でしたが若いころからの愛飲愛煙の生活習慣がもたらした結果だと本人は観念したものの、さてこれからドライブをしよう、家庭大工をしようという漠然とした解放感が一瞬にして消えたのですから本人もさることながら家族にとっても青天の霹靂、大きな誤算でした。
そういえばこの病気と直接関係はないでしょうが50代後半から発作的にパニック症状に襲われることがたびたびあり、あれほど執着(依存)していた酒と煙草をほぼ同時に絶ったのですから本人にとってはそれ相応の切迫した危機感があったのでしょう。
それと通常の人より特別神経が過敏なところがあるので痛みとかの自覚症状がなくても体内の変化が原因で意味不明のパニック症をおこしていたのかも、と後になっての本人の感想がありました。
だから癌だと言われても納得できるものがあったようです。
とにかく夫はある日突然に立派なガン患者になっていました。
彼の癌は4段階でいえば3段階(T3b)で、「転移はしていないが被膜を超えて浸潤している」ものでした。
前立腺ガンのマーカーがPSA110という高数値で、転移していても不思議ではない数字でした。すでに精のうにまで浸潤していて手術は出来ないので放射線治療をすることになり、その前にまずホルモン治療を始めました。
前立腺ガンの餌は「男性ホルモン」です。これをカットするには男性ホルモン製造元の睾丸摘出が通常ですが、男性ホルモンは活力のもとでもあるわけですから、治癒後のことを考えてやめました。
代わりにリュープリンという注射と副腎からのホルモンをカットする薬を併用する道を選びました。
ホルモン治療開始後一年経過、ガンが縮小し、浸潤も消えたので、次は放射線治療です。
2012年夏8月〜9月の週末を除く毎日放射線治療のため大学病院に通いました。(36回)
昔ならこの治療のため入院するのでしょうが、今は自分で運転して通いながらですから驚きました。
しかし、このころからさすがに体調不良、体重減少、食欲不振などで臥せがちになりました。
放射線治療が終了すると月一回のホルモン治療が再び始まり、夜間頻尿に疲弊する日々が続き、明らかに病人の様相が表に現れるようになりました。
定年退職後も週二回の非常勤の仕事があと5年残っていましたので、気分がまぎれると同時に70歳までは頑張るんだという気力に繋がりました。
気持ちを奮い立たせるために服装に気を配りできるだけ元気印が出るようにしてみたり、食事が進むように
一緒に買い物に行って食欲の湧く食材を自分で見て買うようにとか、気分転換に一泊の温泉旅行、ホテルで
ランチタイムを楽しむことなど・・・そして本人は就寝前に簡単で継続的な体操をして体力維持に努力していました。
2013年秋から私たちはブログを始めました。
それぞれの活動や思いを記録することはとても有意義に思えました。
特にガン患者の彼にとってブログは生活の大きな柱になったのです。
表現したいことがいっぱいあって、書いていると心が落ち着き精神的に大きな救いになったそうです。
陶芸小屋が雨漏りした時は体調が一番悪かった時期ですが、作った自分じゃないと分からないからと言って屋根に上がってルーフィングとトタンを張りました。母屋の雨漏りの時も屋根に上がって穴を塞いで修理してから室内天井のシミを隠すために簾を張る作業もしました。
さすがにこれは陶芸の若い生徒さんの助けを借りて完成。
少々具合が悪くても人任せにできない性分が我が身を鍛えた面はあります。
2014年5月 書斎&ガレージ部分の屋根張替工事
2014年3月と12月、私は突発的な虚血性大腸炎で2回緊急入院しました。
医者から「なにかストレスになることがありますか?」と尋ねられても特別彼の病気が原因とは思えませんでしたが、私の入院で彼は異常なほど不安を感じたようで共倒れ状態でした。
このような家庭事情で私たちを慰め和ませてくれたのは生後2か月の天使のようなわんこルナの存在でした。
極小チワワのルナ姫を夫婦で育てることが共通の一大使命でした。
ルナが誤飲で死にかけて手術したのもこの年の8月でした。
連日動物病院へ通い、ガンの心配も吹っ飛んでしまいました。
ルナの命が助かることと彼の命を重ねてひたすら祈りました。
梅の種の誤飲が原因だったのですが、執刀にあたって下さった動物病院のI先生のお蔭で一命を取りとめたことは
私たちにとって言葉に代えられないくらいの喜びでした。
ルナの回復で彼の経過が明るい方向に導かれているような気がしたものです。
2014年は過酷な年でしたが何とか乗り切りました。彼もガン患者ながら私の不在期間ルナに慰められながらよく頑張ってくれました!
大好きなパパにキッス攻め
癒しの時間 「パパ、いつもルナが傍にいるからだいいじょ〜ぶよ✾」
2015年10月、ガンの定期検診で胸部大動脈瘤が見つかり小倉記念病院で手術。
心臓弓部のかなり難しい部分にステントを入れる神業のような手術でしたが名医A先生のお蔭で無事に終了。
ホルモン治療の副作用も一因とのことでしたが、これまでたびたびあったパニックを伴った高血圧発作と胸部の異常はこれだったのではないか思われるそうです。もし見つかっていなかったら命取りは癌ではなく大動脈瘤破裂だっただろう、それも近い将来にと言われました。
癌のお蔭で救われましたからなんと運の強いこと。
手術にあたり、執刀医の先生が妻である私に「何か質問はありますか?」と問われたときについ「退院後に彼は司会の仕事があるのですが、普通に声は出るでしょうか?」と聞いたことがあまりに唐突で間抜けだとあとあとまで彼から笑われました。
ふつう心配するのは声ではないだろうがと・・・
退院直後でしたが私の趣味であるフォークギターサークルの「昭和うたごえライブ」の司会を彼は無事に果たしてくれましたのでやれやれ・・・でした。
これもまだ気力的に人前でやれるんだというリハビリのようなものでした。
2014年秋にホルモン治療をいったん終了しましたがその後2年間でPSA数値が漸増傾向にありましたので、
2016年秋にはホルモン治療再開の予定でした。
しかしこの時も彼にはまた「昭和うたごえライブ」の司会の役割がありまして治療を延期してもらったのですが、
この延期が幸いしたものか、同年12月と今年2017年3月の検査では上昇のはずの数値が危険ゾーン前で停滞していました。おかげでホルモン治療はしばらく見送り、次の検査も半年後でいいことになりました。
「奥様のライブのお蔭ですね〜」と主治医からひやかされましたが・・・
ひとまず5年をクリア出来たことを2人で喜び合いました。
海外に長年暮らしている娘ともスカイプで頻繁に 語り合い関係を密にしています。
ガン発覚の時にはたまたま娘が帰国していて3人でこの事態を共有できたことはとても心強かったです。
彼女もとても心配してパートナーと日本に帰ると言いましたがまだ大丈夫とひとまず別れました。
そうこうしながら5年が経過し、この先もまた5年をスパンとして平均寿命まで延命できればそれでいいのですから。
癌患者が家族にいることで私たちは「限りあるいのち」について語り合うことが多くなりました。
もしステージ4になったら緩和医療とホスピスという選択も考えていたことで「ホームホスピスひさの」を知り、
田中好(このみ)さんと出会うきっかけになりました。
彼女の寄稿文は以前ブログで取り上げさせていただきました。*「ホームホスピスひさの&終末のあり方」
夫の甥が泌尿器科の専門医なので折に触れて貴重なアドバイスをもらえたこともとても幸運でした。
今彼はとても順調で我が家は5年前の時間が戻ってきたような気分です。
あれほど悩まされた頻尿問題も今はほとんどありません。
春という季節もありますが、朝から軽やかな鼻歌が聞こえてきます。
このままの平和がいつまで続くか分かりませんがとりあえず今の時間があることに感謝します。
夫が前立腺ガンの宣告を受けたのは2011年、定年退職した翌年65歳の秋でした。現職中、病とは全く無縁の人でしたが若いころからの愛飲愛煙の生活習慣がもたらした結果だと本人は観念したものの、さてこれからドライブをしよう、家庭大工をしようという漠然とした解放感が一瞬にして消えたのですから本人もさることながら家族にとっても青天の霹靂、大きな誤算でした。
そういえばこの病気と直接関係はないでしょうが50代後半から発作的にパニック症状に襲われることがたびたびあり、あれほど執着(依存)していた酒と煙草をほぼ同時に絶ったのですから本人にとってはそれ相応の切迫した危機感があったのでしょう。
それと通常の人より特別神経が過敏なところがあるので痛みとかの自覚症状がなくても体内の変化が原因で意味不明のパニック症をおこしていたのかも、と後になっての本人の感想がありました。
だから癌だと言われても納得できるものがあったようです。
とにかく夫はある日突然に立派なガン患者になっていました。
彼の癌は4段階でいえば3段階(T3b)で、「転移はしていないが被膜を超えて浸潤している」ものでした。
前立腺ガンのマーカーがPSA110という高数値で、転移していても不思議ではない数字でした。すでに精のうにまで浸潤していて手術は出来ないので放射線治療をすることになり、その前にまずホルモン治療を始めました。
前立腺ガンの餌は「男性ホルモン」です。これをカットするには男性ホルモン製造元の睾丸摘出が通常ですが、男性ホルモンは活力のもとでもあるわけですから、治癒後のことを考えてやめました。
代わりにリュープリンという注射と副腎からのホルモンをカットする薬を併用する道を選びました。
ホルモン治療開始後一年経過、ガンが縮小し、浸潤も消えたので、次は放射線治療です。
2012年夏8月〜9月の週末を除く毎日放射線治療のため大学病院に通いました。(36回)
昔ならこの治療のため入院するのでしょうが、今は自分で運転して通いながらですから驚きました。
しかし、このころからさすがに体調不良、体重減少、食欲不振などで臥せがちになりました。
放射線治療が終了すると月一回のホルモン治療が再び始まり、夜間頻尿に疲弊する日々が続き、明らかに病人の様相が表に現れるようになりました。
定年退職後も週二回の非常勤の仕事があと5年残っていましたので、気分がまぎれると同時に70歳までは頑張るんだという気力に繋がりました。
気持ちを奮い立たせるために服装に気を配りできるだけ元気印が出るようにしてみたり、食事が進むように
一緒に買い物に行って食欲の湧く食材を自分で見て買うようにとか、気分転換に一泊の温泉旅行、ホテルで
ランチタイムを楽しむことなど・・・そして本人は就寝前に簡単で継続的な体操をして体力維持に努力していました。
2013年秋から私たちはブログを始めました。
それぞれの活動や思いを記録することはとても有意義に思えました。
特にガン患者の彼にとってブログは生活の大きな柱になったのです。
表現したいことがいっぱいあって、書いていると心が落ち着き精神的に大きな救いになったそうです。
陶芸小屋が雨漏りした時は体調が一番悪かった時期ですが、作った自分じゃないと分からないからと言って屋根に上がってルーフィングとトタンを張りました。母屋の雨漏りの時も屋根に上がって穴を塞いで修理してから室内天井のシミを隠すために簾を張る作業もしました。
さすがにこれは陶芸の若い生徒さんの助けを借りて完成。
少々具合が悪くても人任せにできない性分が我が身を鍛えた面はあります。
2014年5月 書斎&ガレージ部分の屋根張替工事
2014年3月と12月、私は突発的な虚血性大腸炎で2回緊急入院しました。
医者から「なにかストレスになることがありますか?」と尋ねられても特別彼の病気が原因とは思えませんでしたが、私の入院で彼は異常なほど不安を感じたようで共倒れ状態でした。
このような家庭事情で私たちを慰め和ませてくれたのは生後2か月の天使のようなわんこルナの存在でした。
極小チワワのルナ姫を夫婦で育てることが共通の一大使命でした。
ルナが誤飲で死にかけて手術したのもこの年の8月でした。
連日動物病院へ通い、ガンの心配も吹っ飛んでしまいました。
ルナの命が助かることと彼の命を重ねてひたすら祈りました。
梅の種の誤飲が原因だったのですが、執刀にあたって下さった動物病院のI先生のお蔭で一命を取りとめたことは
私たちにとって言葉に代えられないくらいの喜びでした。
ルナの回復で彼の経過が明るい方向に導かれているような気がしたものです。
2014年は過酷な年でしたが何とか乗り切りました。彼もガン患者ながら私の不在期間ルナに慰められながらよく頑張ってくれました!
大好きなパパにキッス攻め
癒しの時間 「パパ、いつもルナが傍にいるからだいいじょ〜ぶよ✾」
2015年10月、ガンの定期検診で胸部大動脈瘤が見つかり小倉記念病院で手術。
心臓弓部のかなり難しい部分にステントを入れる神業のような手術でしたが名医A先生のお蔭で無事に終了。
ホルモン治療の副作用も一因とのことでしたが、これまでたびたびあったパニックを伴った高血圧発作と胸部の異常はこれだったのではないか思われるそうです。もし見つかっていなかったら命取りは癌ではなく大動脈瘤破裂だっただろう、それも近い将来にと言われました。
癌のお蔭で救われましたからなんと運の強いこと。
手術にあたり、執刀医の先生が妻である私に「何か質問はありますか?」と問われたときについ「退院後に彼は司会の仕事があるのですが、普通に声は出るでしょうか?」と聞いたことがあまりに唐突で間抜けだとあとあとまで彼から笑われました。
ふつう心配するのは声ではないだろうがと・・・
退院直後でしたが私の趣味であるフォークギターサークルの「昭和うたごえライブ」の司会を彼は無事に果たしてくれましたのでやれやれ・・・でした。
これもまだ気力的に人前でやれるんだというリハビリのようなものでした。
2014年秋にホルモン治療をいったん終了しましたがその後2年間でPSA数値が漸増傾向にありましたので、
2016年秋にはホルモン治療再開の予定でした。
しかしこの時も彼にはまた「昭和うたごえライブ」の司会の役割がありまして治療を延期してもらったのですが、
この延期が幸いしたものか、同年12月と今年2017年3月の検査では上昇のはずの数値が危険ゾーン前で停滞していました。おかげでホルモン治療はしばらく見送り、次の検査も半年後でいいことになりました。
「奥様のライブのお蔭ですね〜」と主治医からひやかされましたが・・・
ひとまず5年をクリア出来たことを2人で喜び合いました。
海外に長年暮らしている娘ともスカイプで頻繁に 語り合い関係を密にしています。
ガン発覚の時にはたまたま娘が帰国していて3人でこの事態を共有できたことはとても心強かったです。
彼女もとても心配してパートナーと日本に帰ると言いましたがまだ大丈夫とひとまず別れました。
そうこうしながら5年が経過し、この先もまた5年をスパンとして平均寿命まで延命できればそれでいいのですから。
癌患者が家族にいることで私たちは「限りあるいのち」について語り合うことが多くなりました。
もしステージ4になったら緩和医療とホスピスという選択も考えていたことで「ホームホスピスひさの」を知り、
田中好(このみ)さんと出会うきっかけになりました。
彼女の寄稿文は以前ブログで取り上げさせていただきました。*「ホームホスピスひさの&終末のあり方」
夫の甥が泌尿器科の専門医なので折に触れて貴重なアドバイスをもらえたこともとても幸運でした。
今彼はとても順調で我が家は5年前の時間が戻ってきたような気分です。
あれほど悩まされた頻尿問題も今はほとんどありません。
春という季節もありますが、朝から軽やかな鼻歌が聞こえてきます。
このままの平和がいつまで続くか分かりませんがとりあえず今の時間があることに感謝します。